芥川賞を受賞された、又吉さんの火花か花火を読みました。

久しぶりに本を読むようになって1週間ほど。1度読み始めると癖になり、読まない状態が気持ち悪くなります。子育てと読書は私には相容れないもので、中断されるのが辛いのでつとめて読まないようにしてきました。ときどき、流行りのビジネス書などは読みましたが、小説は避けてきました。
イライラすると、器が小さくなりどうでもいいようなことに腹がたつので、睡眠不足は避けられないとすればひとつは諦め、ときどき美味しいものを食べることがイライラしない子育ての秘訣じゃないのかと真面目に考えたりします。冗談です。

ところで、花火だか火花だかを読みました。物語を思い出すと花火が出てくるのですが、なんとなく反対だったような気がします。文藝春秋でなおかつKindle版で読んでしまったため、表紙がどーんと迫ってくることがなく、あっさりと始まり、あっさりと読み終わってしまい、結局どっちだったっけ…。

はじめから読み進めていますと、書き手の又吉さんの顔がチラついて離れません。漫才を観たことがあるはずですが、正直、なあんとなくしか記憶していませんし、声も覚えていないのですが、顔のインパクトが強すぎて、あの方と主人公の視点をダブらせてしまい、読んで行くにつれ、だんだん自分が又吉さんになっていく気すらします。

あの人の目のインパクトがものすごく強くて、あの目越しに物を視るとこうみえるのかと、それはそれで楽しいものでした。なるほど私のような早口ではない人はこんなことを考えているのかもしれないと。
途中彼が銀髪になるのですが、これにはなかなか苦労しました。又吉さんを頭の中で銀髪に出来なくて、そのあたりからようやく主人公の彼が又吉さんから離れていき、私になっていきました。ただ、話すと又吉さんのままでしたが。

純文学に贈られる賞だそうで、はたして純文学とは何ぞやと。これまで、ジャンルを意識して読んだことがなかったため、こういうのを純文学というのか?と思いながら読んでおりました。あとでふと気になって、Amazonのレビューを流し見しましたが、噂通り荒れてはいるものの、これは純文学ではない!と一刀両断しているような方はいないように見受けられたので、きっとこの作品を純文学としても良いのだろうと判断しました。

ということは、というか、オチとかなくていいんだ。純文学ってオチなくていいのかな。アレがオチなのかな。

そのあたりは私が関西人なせいで、強烈なオチを求めすぎるからそう思うのでしょうか。
終わらない世界を描くのが純文学なのでしょうか。普段私の生きる世界に、わかりやすく終わるものが多いからかもしれません。それこそ花火が打ち上がるような終わり方をする曲、犯人は捕まりハッピーエンド、スポーツは優勝。こう書いていくと、これは全部違うジャンルの読み物なのだろうと想像がつきました。

ということは、ひとときその世界を垣間見、浸ることが出来たのですから、私にとってはよいお話だったと位置付けることにします。
きっとどこかで、この人たちは生きているんだと信じられるので。

火花

あっ
火花か……。

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