ブロガーズフェスティバルでの紫原(家入)明子さんのことばから文章と音楽について考えてみる

 BsTSU86 shizukugahakanaku
  「井上陽水の少年時代が流れるような」コラムとはいったい何だろう。

彼女の書く文章は、途中色々なことを言っていても最終すっと気持ちよく終わる。その読後感は、確かに1曲聞いた後と似ている。

文章というのは、読む人がいる限り、音楽になれる。それは、読む人の頭の中だけに流れる音楽。

音楽だというとわかりにくくても、リズムがあるのは理解しやすいと思う。リズムがないなら、「、」も「。」も必要ない。文章には息の吸うところが重要で、そこも音楽と似ている。もし、人間全体の平均的な肺活量が、今の倍あるなら、文章ももっと長くなっていたかもしれない。

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ブロガーズフェスティバルの他のセッションで言われていたことで、「自分の文章を口に出して読んでみる」というのがあったが、それは指先や目に任せるのではなく、実際に自分の耳から音楽として文章を取り入れ、客観的に聞いてみるということだと思う。そうすると、流れの悪い箇所や、響きにくい箇所がわかってくる。

私が教えているピアノや、クラシック音楽と文章を結びつけるなら、楽譜があり、ピアノを弾くことは、そもそもある文章をどのように朗読するかに似ている。
まず書かれている言葉を読み、漢字を理解し、全体的なストーリーとして捉えるには、実は少しずつプロセスを踏んでいる。

子どもを見ていると、ことばのはじまりがわかる。
小さな子どもはまず、「あ」「いー」など単音を発する。だんだん2つ3つとつながっていき、単語になっていく。文字を見て覚えだしてからは、まず1つずつ発声し、「〜しました。」という文章も、「し」「ま」「し」「た」というように、はじめはうまくつながらない。

ピアノを学ぶことも同じで、「ド」「レ」「ミ」と1つずつ覚え、「ドレミー」と繋がったところで初めて、「咲いた〜咲いた〜」と聞こえるようになる。

そして、単語から文章へ、文章からコラムや、1つの繋がりのある物語へと進んで行く。

では、読みやすい、心に残る文章と、なんだか読みにくい文章との差は何だろう。
それを考えると、もっと大きく曲を捉える必要が出てくる。

単に「ドレミードレミー」と弾くだけでは、一見繋がっていても、音楽にはならない。1つ1つの音は理解していても、出発点や、盛り上がりの山、着地点を把握し理解していなければ、曲として成り立たず、つながってはいないのである。

プロである人は、1つ1つの音をどう聴かせるかと、全体がどう聴こえているか、曲全体が1つのまとまりとして繋がっているか、細かくと大きく、どちらも「わかっている」人だと思う。顕微鏡と、俯瞰する鳥、どちらも必要なのである。(わかっていてもできなくて苦しむ人も多いが)

私はいつも1つ1つのメロディーには気を配っていても、全体的な構成なんてそっちのけで書いていたことを、今回の明子さんのことばで思い出した。私のピアノと同じである。

クラシックと違うところは、そこにある文章を読むのではなく、作り出さなければいけないところだ。コード進行を考えるように、どう始まるか、ここでサビを、ここはせつなく、どう余韻を残すか、1つの曲を作るように、産み出さなければならない。
もう音楽は全て出尽くしたのではないか、と言われているのをどこかで見たが、文章や物語も同じように、完全なるオリジナルを作り出すことは不可能ではないかと思う。

しかし、人間はかけ算である。これまで触れてきた日本語のすべて、人生の体験を駆使するなら、それはあなたのオリジナルになり、誰かに響く文章は必ず書ける。こうと思えば、いつも同じコード進行でもいい。TUBEがずっと夏で、クリスマスには山下達郎がいい。そうでなくても、世に溢れる音楽の中には、同じコード進行のものがほとんどだ。要は誰が何をどんなメロディーで歌うかだ。











だんだんひとりで盛り上がってきて、収拾がつかなくなってきた。
「井上陽水の少年時代が流れるような」と聞いて、頑張って思いだそうとしたが、どうしても「新しい季節が〜」とスピッツが歌い出して止まらない。きっと、ブロガーズフェスティバルで明子さんの隣に鳥井さんが座っていたせいだ。

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