8割の出来とひとりのためのピアノ

 普段、卑下しすぎてとても鬱陶しい自分を発見するのですが、ピアノに関しては妙にポジティブだったことに気がつきました。

演奏をする上で、普段は弾けるのに、緊張したらどうもめちゃくちゃになる、本番に弱い。自分の満足のいく演奏が人前でできたことがない。と思っていたのですが、単に詰めが甘かっただけだと最近身をもって実感しました。

弾けるようになるまでは、克服するのが楽しくて頑張ります。しかし、ある程度仕上がると、妙にポジティブになってしまい、できる時の自分を信じてしまうのです。しかし、完璧に弾ける確率が8割を越えていても、本番は残りの2割が出てくるのが実際のところです。

これを緊張のせいととらえ、「緊張さえしなければ、気をもっと強く持てば」と常々考えていました。

いくつかの本番の機会をもらって、いつもその8割を披露するつもりで6割の演奏。単なる練習不足です。いくら緊張しようが、誰かが騒いでいようが、弾ける確率さえ100%に近ければ、怖いものはないはずなのです。

ピアノを弾くとき、気持ちと頭とからだ、すべてバラバラに機能していることがわかります。
人間というのは器用なもので、左右の指バラバラに、足も動かしていながら、晩ご飯のことを考えたり、過去を回想することができます。そして、くよくよ思い悩んだりもできるのです。小難しい曲を弾きながら、わたしは一体何をしているんだろうと。
緊張や気の弱さも一因ではあるでしょうが、もっと一体化したい。

なぜ詰めが甘かったのか、8割でなんとなくどうでもよくなってしまうのかは、わたしの性格に起因するもので、誰にでも当てはまるものではないでしょう。しかし、その解決策として、ひとつ最近いいことがありました。

誰かのために何かをすることは幸せなことです。おとなになったわたしが今喜んでピアノを続けているのは、ひとつは先生が好きだからです。出会うのが遅すぎましたが、やよこはピアノが弾けるんだよ、と教えてくださったのが今の先生です。
私のピアノはこれまで騒音でしかなく、誰に喜ばれるものでもありませんでした。ときどき出会う曲が楽しかったけれど、それは生きていくためのツールであり、非難されず楽に人生を送るための道でした。たまたま得意だったから、勉強のかわりにこちらに逃げてきただけのものです。
友達に弾いてと言われるのが理解できず、自慢だと思われるのも怖く、けれど、見ていると弾きたくなる。練習は嫌い。叱られるのも嫌だけれど、上手になって喜ばせるのも嫌だという中途半端な若い頃でした。

ふと、気まぐれにインスタグラムに演奏を少しだけアップしてみました。そうすると、思いの外喜んでくれた方がいました。この曲がとても好きだと。
私はその人のために、あと2割を突き詰めることにしました。いつか、聴いてもらうために。誰でもないこの私が弾くことにも何か意義があるのかもしれないと、少し思えたのです。

人が生きていくのはシンプルかつ困難です。SNSの微かなやり取りでも、誰かのために何かをして幸せになろうとする大きな動機になり得ると思ったできごとでした。

新年なので、真面目に。

とか言いつつ、ゆく年来る年思いっきりゲームしてましたすみません。

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