「フォルトナの瞳」を読んだら。

 


IMG 2392
関西に住んでいたから、という理由だけが正しくて、他になぜと問われるとわからない。
けれど、たかじんさんは好きだった。全然知らない人だけれど。テレビも、そう熱心に見ていたわけではないけれど。

なので、百田さんは、たかじんさんが亡くなってから、ややこしいことになっていたので、ずっと読まずに放置していた。まあ、小説は小説かと思って「フォルトナの瞳」をとりあえず最後まで読んだ。

本を読むのがはやいと、どうしてもお金がかかってくるので、図書館に行こうと思うけれど、家に本があると子どもがいつか読むかと思うのでなかなか悩ましい。


「フォルトナの瞳」は、「フォルトナの瞳」を持つお兄さんのお話。それより、中に書かれている車のコーティング作業の描写が面白かった。これはいつか、生で見てみたい。

スポンサーリンク
本を書くとき、こういう描写はやっぱり取材に基づいているか、自分がやってみたことがあることか、なのだろう。わたしは家にいて、ただ本を読んでいるだけで共有できた気にはなるけれど、実際には、見てみたり触ってみたりしないとわからないものなのだろう。
ただ、同じ物をみたところで、書こうとする感受性がなければ、どこに行っても同じなのだろうけれど。
たとえば、全然自分も知らない違う世界を書いて、相手に世界観を伝え想像させるのは可能なのだろうか。
筒井康隆の旅のラゴスも、モデルはあるのだろうか。
私の中に今も生きているあの街はどこかにあるのだろうか。
体験した何かや、見た何かから、変化させて書くのだろうか。
何もないところから、発生させるのは、やはり無理なのだろうか。


私が本の中で見た横浜駅も、川崎駅も、きっと全然違うのだろう。


本を読んでいるしばらくのあいだ、わたしは彼と同じように、フォルトナの瞳を持っていた。けれど、彼のように苦悩できたかは微妙なところだ。
三浦綾子の、塩狩峠を思い出した。しかしあれほどの苦悩はしなかった。

*シェアしてくださるとうれしいです*

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

*フォローしてくださるとよろこびます*

*コメントをどうぞ*

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です