世の現実はあまりに厳しく、悲しいニュースに取り込まれそうになる毎日のなかで、私は私の立ち位置として、何か書くならばのんびりしたものを提供することを決めていました。
ですので、あまり時事問題には触れないのをポリシーにしていましたが、
日本死ねが流行語はないでしょう。
書いた本人も、軽々しく使う言葉ではないことをわかっていたから、匿名で書いたのではないのでしょうか。
面白おかしく、死ねと使う場面があることも知っていますし、そんなお上品な土地で育ったわけでもないので、語尾にただくっつけるだけの、意味のないような文句であることも重々承知した上で、それでも、
表に出してはいけないこともあると思うのです。
いくら流行ったから、問題提起になったから、何かを動かしたからといって、表に出してしまってはいけない言葉もあるのです。
日本は、建前と本音の文化があること、それには賛否両論あることでしょう。
本当に死ねと思って言ったわけではないとはいっても、公の場で発信されてしまうと、そこは曖昧になってしまう。
そんな使い分け、
本当は日本死ねなんて思っていないんだけど、腹が立ったから、つい書いた、という前提を、本当に小さな子どもまで、見る方々の全てが理解できるのでしょうか。
日本死ねというキーワードが、公に発信されてしまうような、そんな親、そんな保護者、そんな世間で、まともに子どもが育つのか、疑問を持たざるを得ません。
この行為は、大きな矛盾を孕んでいます。
なぜなら、話題を提供することになるからです。このキーワードがまたどこかで使われるかもしれない。
しかしながら、本当に、あまりに、呆れてしまって、はじめて、日本に、がっかりしてしまいました。
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